コトバの不思議


コトバは不思議だ。そして難しい。
ビジュアルとして捉えるのと、耳から聞くのと、いろんなところから私に飛び込んでくる。容赦なく。
そのたびに私は考える。そんな独り言。


たとえば「優しい」と書くよりも「やさしい」と書く方が、そのやさしさがまるい気がする。「やさしい」には少しだけ、弱さが内包されている、だからその分、まるくやさしい。「優しい」は、強いけれど少し寂しい。自立した強さは常にひとりで立たなければという孤独な決意を伴う。耳で聞けばどちらも「や/さ/し/い」という4つの音だけど、そっと囁くのと笑顔で前向きに発するのとではそのやさしさの質が違ってくる気がする。

私がじんくんの歌を好きな理由のひとつは、声ひとつでいろんな「や/さ/し/い」を魅せてくれること。弱さも強さも傍にいるのも遠くから見守るのも、彼の声は自由に届けてくれる。いつだったかじんくんが「日本語がうまく出てこない」みたいなことを言っていて、それはたとえば英語だと「tender」や「gentle」や、他にも比喩的な表現でいろんな「やさしい」を表せるってことを言いたいのかなあなんて思ってた。でも実は彼の声こそがもっとたくさんの、言葉にできないような「やさしい」までも伝えられるものだってことを、彼は知っているのかな。

そしてじんくんが英語を中心に歌うようになって、やさしさの機微が言葉で歌い分けられたけど、歌詞を追うだけの語学力が無さ過ぎる*1私には改めて歌詞を見なければ実感できないというのがつらい。じんくんの英語はなんだか彼を自由にしたみたいでいつもどこかに羽根が生えているみたいに思える。それも素敵なんだけど、やっぱり彼のやさしさが忘れられない、諦められない。「JIN AKANISHI」じゃ伝わらないことが、私には、ある。


だって私にとっては「あかにしじん」というその名前自体がやさしくて、どこかに弱さもあるもので、「赤西仁」というその名前自体が強いけど、本当は寂しがりなんだもの。

*1:だって「やさしい」を訳すのに「tender」や「gentle」くらいしか出てこないレベルというのがもうおわってるw