また明日も優しい陽が昇るように

じいさんが話したという事実だけがあって、真実が見えない状態で何かを語るのは危険なことだと思う。思うけれど、このタイミングで、少し前に自分が感じたある「ささくれ」について、ここに書きとめておきたい。あくまでも個人の感想です。真実でも事実でもありません。




5対1になったときに感じた不安とも悲しみとも怒りともつかない気持ちが、じんくんのことを考えるたびに「でもきっと、ふらっとまた何事もなかったみたいに帰ってくるんだよ」と楽になるのに、そう時間はかからなかった気がする。実際は心のどこかでそう思い込みたかったんだとしても、私の中に、じんくんに対する楽観的なイメージは確かにあった。
それが少し揺らいだ。揺らいだのは(あまり言うべきではないけれど)某所でLAの映像を見たとき。彼だけ、別のところに行ってしまったような気がした。帰ってくるのが必ずしも彼にとって幸せであるとは言えないような気がした。そして、そんなふうに別の世界に踏み込んだ彼が仮に戻ってきたとして、自分の感性とはどこかずれてしまったカツンのパフォーマンスを受け入れられるのか。仮に受け入れたとしても全力で取り組むのか。そして、そんな躊躇いのあるパフォーマンスを見せられて、果たして私たちは幸せなのか。そんなことを思った。じんくんはいつだってカツンでも本気だった、そう断言できたらいいんだけど、悲しいことに何度か残念な思いをしていたから、私には言えない。その上このLAだよ。感性で生きる人が、ずれたところにある感性を表現するのは苦しいんじゃないのかな。
戻ってくることが、だれをも幸せにしないんじゃないか。そう思ったのが、先日の少クラの「N.M.P」を見たとき。カツンの本気に震えた。そしてここに、躊躇いのある人が加わることは好ましくないな、と思った。LAであんなに歌えるひと。日本でこんなに魅せられるひとたち。どっちも好きだ。誰かが我慢して出来たものを見るのは、ごめんだ。
おじいちゃんのいう「生きる方法が違う。別の世界にいる」この言葉がしみる。私もそう感じたからだ。無理やりなにかを歪めて出来上がったものには、哀しみがつきまとう。悲しい気持ちになりたくて彼らを見るのではない。誰もが笑顔でいられるような方法を、誰が知っているの?教えてほしい。