始まりは一歩踏み出そう

京セラのことを覚えているうちに書きとめておきたい。できればフラットに今までのように「コンサートの記録」として。けれどどうしてもそこに「コンサート」とは関係のない感情がつきまとう。それを切り離そうとするとうまくまとまらなかったりするので、まずは「そういうことなんだ」と自分のスタート地点を認めるために、渦巻く感情を取り出したいと思います。めちゃくちゃ湿っぽい話なのでたたみます。





ついったーで細切れにつぶやいてみたんだけど、細切れの感情を集めれば自分の心を映すモノになるかと言えばそんなことはない。心を表すにはそういう細切れの作業を繰り返し、それをまた自分で組み立てていくという作業が必要なんだと思う。

京セラで見た5人はそれぞれがとても際立って見えた。5人をそれぞれ見ようとして見たわけじゃない*1けど、5人のしたいこと見せたいことが自然にすうっと伝わってきたって感じかな。

私の目の前にいるカツン、それがリアル。笑顔でいる5人がリアル。見えないものを無理に見ようとしたり見えないものを勝手に補って感傷的になることはしたくない。けれどそこかしこにいる「6人のカツン」は消えないし消したくない。消させるものかと守っている。守ることは目の前にいるカツンを否定しているのではない。「6人」であることを「過去のこと」として切り離したくないだけ。同時に「未来」の可能性を自ら打ち消したくもない。それは決して「またきっと6人で歌ってくれるよね」と甘ったるく思っているのではない。「5人」で居続けるかの保証もないはずだ。(減ることもありえる、という意味も含め)*2ただそうやって守った6人のカツンをどこに置けばいいのかわからない。過去にはしたくない、未来に期待しない、今は今を受け止めたいのだとしたら、この6人のカツンはなんなのか?どこにいるのか?

6人のカツンから常に放たれてきた黒い威圧感が心地よかった。直截的な言い方をすれば子宮に響くような色気が本能を痺れさせた。けれど今回そんな威圧感や色気をあまり感じなかったのも事実だ。じゃあそういう類のオーラはじんくんが背負っていたのかと言えばそれは違う。だってじんくんのソロからは威圧感は皆無だもん。色気はちょっとあるけれど。
かめたんは腰を振り指を舐め鋭い眼光を投げて、これでもかというほど私たちを痺れさせようとする。それはここで黄色い声を出せよの合図のようでもある。けどそれじゃない。その合図で引き出される歓声ではない。6人のカツンが放ってきたものは、かめがこれでもかというほど投げた合図を仁がふっと奪い去る瞬間の色気、私にとってはそれがカツンの魅力だった気がする。かめだけでも、仁だけでもだめ。じんかめが背中合わせて、追いかけあうように声を重ねて、そうやって生み出されたものが理性も理屈もすべて吹き飛ばすほど魅力的だった。そこにT-TUNの「正統」「荒々しさ」「自由奔放」「冷徹」が加わって魅力を彩る。もちろんこんなことを考えながら見たことは一度もない。考えながら見ないからこそのカツンだから。

5人のカツンは笑っている。優しさで溢れている。守りの姿勢ではなく、前に踏み出そうというエネルギーに満ちている。それぞれの個性が色鮮やかにグループの核を包むような。でもそこに理屈の入り込む余地がある。「一緒に元気出そう」という気持ちが入り込む。バーチャルおかん、というよりも、バーチャル仲間。それも結構体育会系の。清々しいし、好きだし、一緒にいたい。こんな好きもあるんだろう。今はまだこの好きな気持ちに慣れていなくてちょっとむずむずするけど。

コンサート見て「こういうカツンが好き!」ってゴチャゴチャ言わずに言いたい。過去のDVD見ても「ここここ!だからカツン好きやねん!」と言いたい。過去も今もこれからも好きなことに変わりはない。過去を消し去ろうとする意図が目に付くのは悲しいから、過去を認めてほしい。未来に期待しないと言いながら、勝手な希望だけは持っていたい。清々しくドームを後にして、楽しかったコンサートの思い出をプレイリストに詰めて、次の日再生した時のあのなんとも言えない泣きたい気持ち。6人のカツンと一緒に、置き場のない気持ちが彷徨っている。

*1:基本的にかめ中心に見てることに変わりはないはずだから

*2:こきたんの「じゃあ俺もずっとカツンでいる」という言葉はとても好きだし、その思いは届いているけど